HOW TO  演 劇 部
白里と船橋二和と船橋旭と松戸馬橋と
 
@自己紹介・始めの頃。 
 
私は東京都立青山高校の演劇部にいた。
 同期は5人、未だに先輩とも後輩とも交流がある。演劇部にはいるって事は一生の友を得る事。
伴侶を得た人も何組も。青山高校では演劇部は生徒が全てやっていた。
生徒会全体が生徒によって運営され、文化祭にも体育祭にも教員の影が無かった。自主と自立が誇りだった。
 大学は理学部生物学科。ボート部。その後ギターも。演劇とは無縁の日々。偶然、教員になり、顧問になった。
 
初任校(白里高校)の場合・少しづつ。
 
 だから初任校では、まず生徒の自主性を尊重した。部は週三日の活動予定。
3年3人、1年1人。たまに練習に出ようと思っても、校内にはだあれも居ない、幽霊のような部。
 
 2学期になって、一年生の女の子が「孤児エンミ」という中学向けの芝居を持ってきて、
部員も手伝いも集めてきた。3年の演出を通してちょっとだけ口をだした。
 自主性も尊重したいけど、芝居もやりたいので、その年の予餞会には女の先生1人と男の先生1人を誘って、
私自身が芝居をつくった。チェーホフの三人芝居「熊」。髭のばして、全校生徒の前でキスシーンまでして遊んだ。
 
 その時部員たちは別の芝居をやっていて、自分たちでセットを作っていた。セットも間に合わず中途半端だったけど黙ってた。
 
 2年目に夕鶴で地区大会初参加。私も少しづつ、部活に参加。本をみんなで探して3年目、
「象の死」県大会初出場。4年目「英雄たち」、県大会リハーサルの前日、複数の停学者が出て出場辞退。
ケンカしながら5年目同じ劇で関東突破。6年目、何がなんだかわからないまま全国大会に出場し翌年転勤した。
 
二和の場合・一気に関東へ。
 1979年船橋二和高校に転勤。新設校。勢いにのって部を作り上げた。1年生しかいない学校。
何をやるのもよかった。遅刻だって開校以来第一号の遅刻者という名誉がある。
わかりやすい芝居を、適切な人数で取り組み、セットをきちっとつくってスタッフを先に完成させたのが二和の成功の秘密だ。
旭の場合・転勤したてでゆるやかに関東へ。
 1984年、15年間いた二和と別れ隣の船橋旭高校に転勤した。
旭には以前から顧問が二人いて独特の芝居を作っていたので、この流れを大切にと思った。
 
 新顧問に加わった自分が一気に燃えあがったら部がつぶれると思った。
じっとがまんする事で、久しぶりに個人的にも楽が出来ると思った。3年4人全員進学で6月に引退。
2年2人、1年1人。5月頃、初めて顔を出す。時々2人ぐらいが荷物の散らばった室で、顧問の先生と体操をする。
この先生も千葉県のアマチュア劇団(コモンセンス)の俳優で独自の体の訓練を指導する。
ただこれは演劇の室じゃない。物置だ。まず新顧問の自分はひたすら掃除、部室の模様替えに専念した。
 船橋二和高が「百万回生きた猫」で全国大会出場を決めたまま、4月に転勤してきた。
心残りのこの芝居のために、毎日、放課後、あるいは、勤務時間中から船橋二和高に行った。全国が終わるまで日曜も夏休みも二和にいた。
 
 夏休み後、旭に参加。2年2人、1年1人。
だから劇は2人芝居、でも一人だけ裏方にする事も出来ず3人芝居として「モンタージュ」を上演。毎日参加する部員は部長だけ。
文化祭前の日曜は顧問3人とも出席したので、部長1人に顧問三人で稽古。
顧問がかわるがわるかわいい女の子になったり・音を出したり・演出をしたりの大活躍。
楽な稽古をしているうちに関東に行けた。
 
馬橋の場合・とにかく生徒にあわせて
にこにこと笑顔で。生徒のだべりんぐにおつきあい。ダンス好きにV6の踊りを教えて貰っての。一年。
詳しくは馬橋のはじまりの綱に。
 
A部を作る→二和と旭の部員獲得法  
 
二和ではまず授業中に写真パネルで宣伝した。
 船橋二和の開校は昭和54年4月14日、私は学校創立に立ち会った。1年生だけ8クラス。
1Gの担任。生物4クラスを教えた。まず授業中に写真パネルを持っていって各クラスで二時間ぐらいづつ生物と演劇の魅力を講演。
自習監督を頼まれると飛んでいってそこでも勧誘した。
 
旭では控えめに宣伝した。
 平成6年に転勤した旭では渡り廊下で舞台美術パネル写真展を1ヶ月間開いた。
演劇ニュースも文化祭のクラス劇をテーマに発行。常設で生物室前に舞台美術写真展も開いた。
VTR鑑賞会も1年目4月に『楢山節考』、結局部員は増えなかったが文化祭のクラス劇がそれまでの1クラスから4クラスに増えた。

二和では開校後2週間目の5月1日に演劇部を創立した。
女10人、男1人。なんとか、男を増やしたい。ランニング・柔軟・体操などで女子は徐々にやめていく。
「男をつれてこい」「だってえ」。一人だけの男がさみしさに耐えかねて友人一人また一人と連れてきた。
 
ミュージカルで部をふくらませる
 6月に船橋地区の発表会がある。
 よし、これだ。「来月の地区大会に参加する。」「えーっ」「うそー」「創作ミュージカルだ」
「えーっ」「まじー?」「脚本は?」「一人一ページずつ書いてこい」「げっ」「そんなー」「音楽は?」
「こんなのはどうだ」とジーザス・クライスト・スーパースターの一フレーズを紹介。
「誰が弾くの?」「誰かつれてこい」。次の日、やったあ! キーボードを弾ける男が来た。
ミキサーをさわりたい男も来た。動いてる部活に惹かれて、次の日また一人。
「まださみしい、ドラムを使うぞ」誰かがドラムを持ってきた。たたけるやつがいない。
でたらめにドカドカたたいてると廊下から男の声「かしてみな」。やったあ!また一人増えた。
こうして20分の筋めちゃくちゃのミュージカルが出来た。その名も「はじめての本」。部員数男5、女7。
楽器がなっている空間には人が集まるのだ。
 
セットづくりで男子部員さらに獲得
 二和の秋の1作目は「象の死」。大きなセットをつくった。予算がないので古材を買い、夜中に生徒と一緒に粗大ゴミを拾い歩いた。
角材を切り、ベニヤをはる。木工を廊下でやって通りかかった男子に木を切らせる。そこで「いやあ、鋸のプロだね」といいつつコーラを飲ませる。
翌日からこの男も部員。毎日活動している部活には人が集まる。しかも大道具は大きい。
一年生だけで舞台の間口いっぱいのセットをつくり、それをたてこみ・ばらす。
こんな事をしているあいだに、男10女5の部活となり、地区・県と突破し一年生だけで関東3位。
 
旭ではセットは顧問が作った。
 転勤したての秋の作品「モンタージュ」、大道具は簡単にスケッチを描いて、他の二人の顧問に作って貰った。
 二人の顧問は生徒を使うのが上手で、貸したラジカセを紛失してしまったクラスに「全員、体で返せ」と命令。
男子10人ぐらいが鋸と金槌を持って大道具を作った。
「吊りものにするジョーゼットの形を説明して」というので家庭科室に行ったら一クラス分の女の子が全員針を持って待ちかまえていたのには驚いた。
 
 二人の顧問は紙貼りまでやって、生徒と帰った。私一人残って、色塗りや仕上げをした。
久しぶりの裏方で楽しかった。何せダメをだしても文句も言われない。自分でやり直すだけというのが実にいい。
 質感を大切にし、かわいい仕掛けも、顧問共作で3〜4点配し、シンプルで見ごたえのある美しいセットが出来た。
地区大会の前日の夜中にぱっと目が覚め、「赤い布くれえ」と家族を起こし、引き出物の風呂敷で桜の飾りものを作って、
ぶっつけ本番で吊り込み、みんなにほめられた。県大会では舞台美術賞獲得。
男子を連れてこい。
 二和では春の新入生歓迎公演期間中は一年生は部員として認めて貰えない。
女子は「男子を連れてこないとゼッタイに部員にしないからね」などと怖い2年生に脅されて涙を流す。
そして結構男子を連れて入部する。
 セットづくりは男子を呼び込む秘訣。
 
B脚本選び→芝居成功→部員集まる。
いい本て何だろう
 二和1年目の秋は「象の死」。読み合わせで脚本を選んだ。戦時中上野動物園で動物が餓死させられる話である。
読んでいるうちに象が逆立ちする。そのクライマックスで女医役が泣き出した。
仕方がないので次の奴に読ませたらまた泣き出して読めなくなった。次の奴に回そうと思ったらもうぼろぼろに泣いてた。
これで脚本は決定。誰かが感じている、それがいい本だ。
 
脚本を探す
 基本的に脚本は1人10冊読んで1冊推薦する。戯曲集は図書室で買って貰ったり、部室に少しづつそろえたり、図書館から借りてきたりする。
私の家に山ほどテアトロの新劇のバックナンバー、単行本をつみあげて読書会もやった。
人数多いときは何日かに分けて狭い我が家は子供部屋も階段も玄関も高校生に占領された。
 子ども達が高校生となる頃からこれも難しくなり今は校内でちょこっとしかやっていない。
 
脚本会議
 読み合わせ後、一人一人筋を説明し、考えを発表する。1回読んでは話し合うので絞り込んでいくのに数日かかり議論が白熱する。
候補作が4つぐらいになったら、全部印刷してしまう。キャストもきめて、立ち稽古風にやってみる。
推薦する本ごとに班に分かれ、作戦を立てたり、相手をこき下ろしたり、上演許可を取りに走ったりする。
上演許可取得の有無、ぴったりしたキャストがいるか、自分たちが感じるか、などで本は絞り込まれる。
 いい芝居をやっているとお客がいつか部員になる。高校生は無論、中学生が入部を決心して帰っていく。
これで部員勧誘の6割が決まる。本選びに失敗は許されない。 
 
C脚本について勉強しよう。
「象の死」
 班に分かれて戦争についてパンフレットをつくった。生徒が交渉し、上野動物園の象舎を見学した。
象舎の2階に案内された。そこは飼育係の控え室で、みんなは足下の象を見ながら緊張した面もちで、
当時の飼育係から戦時中の象の話を聞いた。
 
「翼は心につけて」
 骨肉腫で死んだ少女の話。医学書を読んだ。外科医院を訪れた。癌センターで最前線の医師の話を聞いた。
まだ70%の人が死んでしまう時期だった。
 癌センターでは腕や足を切った子供たちにあわせて貰った。明日5回目の手術だという高校生とも話をした。
息もつけない一日だった。この芝居の影響で部員が何人か看護婦や臨床検査技師になった。
 
「かげの砦」
 養護学校に通った。班に分かれて肢体不自由児・精神薄弱児の施設に何回も遊びに行った。
一緒にプール掃除をしたり、ジェンカを踊ったり運動会の応援団もやった。
 老人救護施設「房総平和園」を訪ねたとき、園長先生に「ここの人たちも懸命に生きてるんですよ」と教えられ、
食堂で園生の方々に暖かく迎えられ、「海は広いな大きいなあ」とあの歌を歌って貰ったとき、
そのあまりの声の大きさに部員も顧問も打たれ、ウォークマンを取り落とし、うろたえ、涙が止まらなかった。
 
「カッコーの巣の上を」にチャレンジ(結局上演出来なかった)
 ある班は精神病院に仮入院した。3日通ってお友達になった。
その後部員全員が病院のお祭りに招待されて歌や踊りを披露している。
 
「英雄たち」
 農家の手伝いをした。岩手に取材旅行もした。
 「みちのく芸能祭り」で「さんさ踊り」を習った。渋民村の作者の家の前も通った。
 小さな車に4人の生徒が足を縮めて乗る窮屈な長旅。岩手ぶどう座の川村先生に方言を習った。
川村先生の居る湯田町はものすごい山奥で途中の山道で見上げた満点の星空に感動した。
岩手には「英雄たち」で3回、そして「うたよみざる」でも取材に行った。
 
「じゃがいもかあさん」
 もちろん畑でジャガイモ作った。パンケーキも作った。絵本作家のアニータ・ローベルさんにみんなで英語で手紙を書いた。
手芸品を作って送った。アニータさんからは絵本や写真を送って貰った。
沢山の映画・TVのビデオや劇を見、本を沢山読んだ。ユダヤ人の事件をいっぱい調べた。
 
「楢山節考」
 深沢七郎さんのラブミー農場をおとづれ、七郎さん直筆の原稿を貸して貰ったりビデオを借りたりした。
もちろん老人ホームにも行った。足腰づくりに餅つき大会もやった。映画、木下恵介・今村昌平もちろん見た。
 
「花いちもんめ」
満蒙開拓団に関する本をいっぱい読んだ。「大地の子」「乳腺村の子」「紅いコーリャン」「満州」「開拓者たち」などの映画も見た。
満州に居た方にも会った。厚生省に行った。中華街で中国人の人に、中国語の部分を発音してもらって録音した。
 
「ヘレン・ケラー」
 全国のあとで急いで作ったので余裕がなかった。ヘレン・ケラーに関する本をいっぱい読んだ。
もちろん「奇跡の人」も参考にしている。が、ここから離れたところで資料を探し続けた。
 県大会で終わった後、「来年もやるよ。」と、顧問がわがまま宣言をした。
インターネットで盲ろうのページを探し、つてを少しづつふやして、ろうあ団体連合のお祭りに参加、手話を勉強し、ろう学校に行った。ろう者劇団九十九とも親しくしてもらえた。
 盲ろうの福島智さんのチャリティ交遊会Vにも参加。リハーサル見学後、直接お話も聞いた。
30分ぐらいだけれど、素晴らしい刺激だった。手話コーラスもこの日習った。
 まわりがろうの人でみんな明るく楽しそうに手話で話している。
そんな中にいる手話がわからない自分がぽつんといる。自分は馬鹿だと思えた。
 
 「花火」
八千代の元祖玉屋を訪れお話を伺ったり古い打ち上げ筒をいただいたりした。
 
「響き」
 県立船橋養護学校(肢体不自由児)、強烈で楽しかった。いろいろな人とお友達になった。
3回ぐらいかよった。船橋市立養護学校(知的障害児)、ここでもよく遊んだ。夏祭り、秋祭り、みんなが待っていてくれる。
 いじめの克服がテーマなので、一人一人のいじめ体験、
いじめられ体験を告白しあった。
特殊学級の生徒達に「あいつら遊んで生活して居るんだよ。」なんて言葉をはく部員も出た。息がつまり腹が立ち、最後には怒鳴りまくってしまった。兄弟に障害を持っている部員が3人もいるのに。
 太鼓は太鼓教室を開いている人が手ほどきしてくれた。
 



D公演を増やそう
通し稽古
 一応台詞も覚えた頃になると毎週「通し稽古」を行う。セットも衣装も照明も出来る限りそろえてやる。
毎週一回、スタッフと役者が心を一つにし、互いのがんばりを知る。初めの頃必ずお客さんを呼んだ。
数学の先生、書道の先生、青山の仲間、白里高OB、中学の友達とどんどん膨らんだ。
 
老人ホーム慰問
 二和の第一作。「象の死」が成功したのは老人ホームの慰問のおかげだ。
お年寄りに劇なんて、と初めはちょっと敬遠されたが、喜んで貰えた。トラックでセットを食堂に運び、舞台をこしらえているとおばあちゃんたちが寄ってくる。
さわってくる。芝居の途中でぼんぼんと声をかけてくる。憲兵が出てくるといやな顔をし、おばあちゃん役が出てくると腰を上げて応援する。
「がんばれ」って。象が逆立ちしたところでみんな泣いてくれた。
 上演が終わって挨拶しようとすると「私の息子も戦争で死にましたよ。」「あの憲兵さん蹴り飛ばしてやろうと思ったよ。」と次から次へと声がかかる。
みんな泣いてしまった。1年生だけの下手な芝居であったが、もうこの1年生たちは芝居をやめられなくなっていた。
 
定期公演
 二和では一年間の締めくくりとして1月に市民文化ホールで冬の定期公演を開催した。
生徒の制作が会場を押さえ、企画し、ポスター・チラシ・パンフレットをつくり、広告を取り、チケットを販売した。
コンクールは自分たちの思いに関係なく、いわば運不運でその後の部活動が突然空白になってしまう。
自分たちで自分たちの芝居を締めくくりたかった。
 
文化祭では4回の公演
 二和でも後半の時代は、全国大会に出場することが多く、創作が8月後半から始まることもあって稽古開始から3週間ぐらいで文化祭になってしまう。
脚本も毎日台詞が4ページも変わる。2日間とも体育館と教室で2度公演、台詞も動きもキャストも一歩づつ作っていった。
 
どこでも公演した。
 二和は、どこででもいつでも公演した。桜の名所の公園で小学生や酔客に囲まれてのお花見公演。
青年の家の合宿で、同宿している団体に見て貰う合宿公演。中学校の視聴覚室や教室、時には体育館での出前公演。
JR船橋駅北口の歩道橋の上のお祭りデッキ広場での野外公演。ビルの谷間の炎天下、突然小雨と雷がとどろく中で「じゃがいもかあさん」を上演した。
戦場のピアニストの廃墟の中に収容所が浮かび上がった気がした。
 多いときには毎週本番があった。大きな会場では発声や動きを、小さな場所ではお客さんの反応を確認出来た。
練習に手が詰まっても本番があれば道が開けた。励みになった。時にはお金にもなった。
 
どこでも稽古
 二和はどこでもいつでも稽古をした。熊本大会までの遠征も列車内練習でアッという間についた。
電車の中、地下鉄の中、歩きながら、ホテルの会議室、食堂、ホールの廊下、駅前広場、どこでもいつでも稽古した。
一分あれば一分ぶんうまくなった。

E演技の基礎訓練 日常の練習形態
指導者講習会
 演劇の基礎訓練の流れをつくるのは大変。私は理学部生物学科でボート部、ただの素人。
演劇の講習会にはよく参加した。千葉県、関東甲信越、あるいは国立オリンピック記念青少年センターで。ノウハウを少しずつ習った。
旭のアップ 約1時間半
    @拍手でリズムをとって体を目覚めさせる。
    A各自ストレッチ
    Bランニング(ジョッキング 1.6q ランニング 1.2q)
    CシノザキシステムVTR利用
       または、ジャズダンス(OBが作った踊り)
または、民族舞踊「御神楽」の一部。またはダンス系アップ
    D山の手事情社ストレッチ・筋肉トレーニング・
    E顔の体操・発音練習
    F山の手風 アップ,平行・喜怒哀楽・スローモーションなど
G歌の練習
    Hこのあと立ち稽古  約1〜2時間
    
毎日の反省会
 1日の練習を終わると反省会を行う。部長またはその日ごとに誰かが仕切って、一人一人その日の事をしゃべる。
練習中は裏や表に分かれてバラバラになってしまうので、この時間帯は貴重だ。
「つかれました」などではなくこんな事をやってこうだった、どうしたらよいか、などと語り合う。
一人一人が自分の肉声で話すのをじっと待つのがよい。OB・お客さん・顧問も話す。
 人数が多くなった時は、斑毎に反省会をし、全体会で代表が話した。
 エンディングは二和は「りーべ」と称する気合いかけ。旭は「どびんちゃびんはげちゃびん」、馬橋は「カウントアップ・拍手でリズム」
通しと本番のチェック
(ア)まずメモで
 通しが終わるとすぐその場で、台本とメモを持って集まる。
各自が自分の反省はおいといて転換の手順、立ち位置、せりふの言い方など何でも気がついたことを言い合う。
演出は通しの間につけていたメモ書きをもとにダメをだす。
 
(イ)アンケート
 公演ごとに必ず、アンケートをとる。ほめ言葉が書いてあるときはそのまま気にしないで片づける。
苦情、提言、不思議な感想など書いてあるとき、何故そんなことがかかれたのか充分に考える。
ヒントを互いに出し合う。親が来ているときには家の食卓などでどんな会話が出たか必ず報告させる。
他人の目ほどありがたいものはない。
 
(ウ)MDとVTR→最近はスマホで録音・録画
 MDまたはカセットで録音をとっておいて、流して聞いたり、繰り返し聞いたりする。
音だけでもずいぶんと色々なことが分かる。
 VTRをとっておいて、それを公演の翌日、見ながらチェックする。
気になるシーンは繰り返し見て当事者に何をしたらよいか考えさせるので、このチェックだけで4時間もかかるときがある。
通常の練習よりはるかに効果がある
 
F親御さんと仲良くしよう。
 
演劇部保護者会
 二和では演劇部保護者会を開いていた。二和の1年生は入学したての6月の地区大会では必ずキャストになる。
地区大会の前に一般公開を体育館で行う。この日には2年生が1年生の家に電話して、ご家族を招待する。
1年生本人だと恥ずかしがって「こなくていいよ」などと言うが、上級生が招待すると結構来てくれる。
 上演後会議室でまず顧問が挨拶する。
お詫びもし、現状も説明し、今後も是非見に来てほしいこと、親同士が知り合いになって気楽に話が出来るようになってほしい事をお願いをする。
その後、各親様から自己紹介やら感想やらがある。その後部員が会議室に入いり、斑毎に上級生の司会で部活について討論会を行う。
親様は子供と同じ班に属し対等に会話に参加する。最後に顧問が挨拶をして終わる。
入学後、あまりにも子供の生活が変わって戸惑っている親様も立派な上級生?や活発な我が子の活動状況を見て演劇部にいることを、
「まあ、認めてやろうか」てな事になる。
 
旭になった時、親様は同世代になった。3年目保護者会を親の主催で開いてもらえた。
それを引き継いだ元気のいい親達がいて、公演の度にみんなで誘い合って見に来るのはもちろんだが、スケジュール帳を開いて、
その日のうちに飲み会を設定してしまう。
飲み会は夫婦で参加してくれるところも多く、毎回2次会まで行くという盛り上がり。
子供をねたにこんなに楽しい会がもてるとは思わなかったと親様達。
いつも、親だけで楽しむのはどうかという話も出て、10月の一般公開の日に親子大バーベキュー大会を開くようになった。
それぞれの親がオートキャンプの腕を披露して、おにぎり、やきそば、
スペアリブ、ステーキ、ビンゴ。そしてプロポーズの言葉を親たちが告白しあう、もう親子数世代+近所の人巻き込んで、校庭で大騒ぎの一日。
それとは別に年3回の定例飲み会も続いた。
 
演劇部報・演劇ニュース
 演劇部顧問から部員保護者、部員、OBあての新聞。新入生歓迎会、文化祭、地区大会などのお知らせ、
各部員の状況、OBの近況、顧問の考え、色々なものが書いてある。
私の手書きで字が汚くて読めない字を親子で「この字はなんと読むのか?」と家族団らんクイズ大会となる。
 
演劇部のホームページ
 演劇部のホームページを開いている。もう34万件のアクセスを超える。
  http://mineto-t.sub.jp/
 
G部を運営する
 二和の場合
(ア)オール1年生キャストで6月公演 
 千葉県には春の地区発表会がある。これは県大会にはつながらない。
二和は1年生はキャスト、2年生はスタッフ、3年生は仮引退でのぞむ。部室で一般生徒にも発表し、体育館でも一般公開して、地区発表会を迎える。
入ったばかりの1年生を育てようと2年生が燃える。一年生も毎日が充実し、仲間意識も高まる。1年生が全員同じ舞台に上がるのは3年間の中でこれが最後だ。
両親は入学してまもない我が子の舞台姿を見て感動する。芝居のレベルも低く苦労も多いが、実り多い公演である。
 
(イ)1年間で必ずスタッフとキャストを経験する。
 スタッフの地味さ・辛さ・苦労・喜びを知らない役者に腹が立つ。無神経な発言でケンカになる。表方には人間としての根っこがない。
 またキャストを経験してないスタッフも頼れない。芝居を全体でとらえず自分の仕事だけやって終わりにしてしまう。
表面だけの派手さで表方をうらやましがり、表方の遅々として練習効果が得られず、前へ進めない苦悩がわからない。
 両方経験しなければ、部員ではない。だから二和では1年生の6月に全員がキャストになる。
その後文化祭と新入生歓迎会で、必ず表方と裏方を1年間に1回づつやる。
 
(エ)徹底的に話し合おう=お茶会
 二和ではお茶会と称して色々な話し合いを持つ。お茶会の起源は開校の頃、毎週火曜日、
各班の班長が顧問の家に集まってお茶とお菓子を食べながら各班の様子や運営の仕方などを相談して居たのが始まりである。
やがて時間がとれなくなって、必要に応じて校内でやるようになった。
 部活をやっていると言いたいことがいっぱいたまってくる。それを吐き出させる。
 ある6月公演の時。演出は2年生の女の子、練習がうまく行かず、1年だけのお茶会を主催した。
1年生も初めはなかなか本音が出てこなかったが、先輩に対する不満や、意見が出てくるうちに、
僕は中学時代にいじめにあってやっと乗り越えたとか、喘息で1年間学校にいけなく、何度も死にかけた、などとその人間の根っこがいっぱい出てきた。
元野球部の男がみんなを励ましたり、態度が悪いと思われていたものが、生来耳が悪くて誤解されてるんだなどと打ち明けたり、
とにかくすごい迫力になってしまって、みんなが泣き出してしまった。
 
 旭でも「はないちもんめ」の関東大会直前にこれがあった。
照明のスタッフが「表をやりたくて部に入ったのにやれなくて、それでも頑張って、アップもでて、苦手なランニングもやっているのにキャストが遅刻して、悔しい。
稽古の出番じゃない時に遊んでいるキャストの横で、照明プランつくって苦しまなければならないのが、悔しい。
1年生で何もわからないのに照明やらされて、本番で失敗するとすぐ照明のことばっかり非難されてとっても、くやしい」と涙をぼろぼろ流しながら戦った。
この後、部活がとても楽になった。
 それからは何かがあるとすぐお茶会。トータル5時間もかかるお茶会もめずらしくない。
言いたいことすべて吐き出して、疲れ果てて、ぐっと空気が良くなる。
 
 馬橋。このシステムが一昨年、壊れた。顧問が居ない時のお茶会があれて、多くの物が部を去った。
以後、きつい言葉が飛び交うことをさけて、お茶会を封印した。
ただ、年度当初、お互いにどんなにきつい事を自分は持っているかをつげる会は残った。
その名も「家族会」と呼ばれ、目が覚めたら母が家を出ていく所だった。
父が浮気して出ていった。家庭内暴力を受けている。新しいお父さんである。等々、部員の七割近くが、大きな事を抱えている。
それが静かにとうとうと語られていく。涙で心が洗われていく。夜遅くまで二日間も続く。あたたかくなり、すごい覚悟をしていることに気がつく。
 昨年、一年生が迷っている時、二年生が十分成長したと見て、顧問こっそり参加のもと、久しぶりに部の活動に対するお茶会を開いた。
うまくいった。部をやめたいと思っていたものもやる気にあふれるようになって秋に向かえた。
 
(オ)裏方講習会
 各スタッフが講習会を開く。実技で灯体をつったり、メイクで老人をつくったり、鉄管縛りや南京縛りの実習をしたり、ペーパーテストをやったりやり方は様々。
5月・夏合宿・春合宿などで行う。
(カ)ういろう売りテスト
 二和では5月に1年生は「ういろう売り」のテストをパスして初めて部員になれる。
上級生は「出来なかったら部員にしない」と、さんざ脅しておいて、試験本番ではパスするまで手助けをするとのこと。
 旭では、ういろう売りを違った形で使いだした。もちろん、覚えるのだが、1人が自由なしゃべり方でポーズをつけながら一行語り、
それを次のメンバーが、これまた全く違ったポーズ、違ったニュアンスで語る。面白いし自由自在に台詞をしゃべる力になる。そいつの持っている個性もよく分かる。
(キ)クラブハイク
 二和では5月連休の日、県民の森で野外パーティを開いた。班ごとにメニューを工夫。
バーベキューだったりお好み焼きだったり、ケーキを焼いてくる男子も居る。食後はスポーツやレク。
 旭は5月連休に、野田の清水公園でアスレチックに挑む。
水上アスレチックで顧問も水没。水没者は年々増加、多いときは部員の3分の2に及ぶ。
馬橋も、野田の清水公園アスレチック。
 
(ク)クリスマス公演
 二和では身内の公演をクリスマスに行った。
キャストも適当にその時のスタッフがキャストになったりして遊ぶ。
これが芝居に新しい目線を持ち込む。この日制作関係の仕事も一気に終わる。
部報スペシャル・冬の定演のパンフレット・発注。全てが終わるとクリスマスパーティ、飾り付けもして、
手作りのおにぎりやケーキもいっぱい出て、
プレゼントもあって一年が終わった。
 旭は公民館で市の主催をとりつけて公演した。
 馬橋は剣道場でその年度の仕上げ公演として企画。なぜか誕生会とクリスマスパーティも兼ねることになった。

(コ)打ち上げ
 公演の後、大掃除。その後、お菓子とジュースで乾杯をする。
大きな公演が終わったとき、ここでもろもろの思いが吹き出し、つらかったこと楽しかったことを一人づつ語り始める。
泣いちゃう奴も笑っちゃう奴もいる。
 打ち上げは一つの終わりでもあるが、次のスタートでもある。

(サ)劇を見に行こう。
 二和では連休中に各班ごとに東京へ芝居を見に行った。情報誌を見て安くすむところに行くことが多かった。
 夏合宿は代々木の国立オリンピックセンターで行い、夜になるとみんなで劇場に行った。
帝劇や日生劇場でも1番安いところなら何とかはいれる。宿泊費が安いので劇を見ても、
全体費用は民宿などに泊まるよりかは安くなった。
 見た芝居が面白ければそれが上演作品候補ともなった。 
 
(シ)キャスティングはオーディション
 脚本を選択しながらいろんな組み合わせで台本を読みあわせる。脚本が正式に決まると、
立候補と推薦で各役の候補を決める。すでに台詞が入っているものも多い。立ち稽古もして、みんなの意見を聞いて決める。
 立ち稽古ではその場の雰囲気でどんどんキャストを代える。
誰かが欠席するとそのチャンスにいろいろなキャスティングも試せる。
(ス)ダブルキャスト
 二和では時々、ダブルキャスト、トリプルキャストをくんだ。公演によって誰がやるかわからない。本人たちにはとてもつらいことだが、違う役者の演技を見てぐんぐんと成長する。     
 
(セ)追いコン
 二和の追いコンは時間がかかり過ぎて大変。在校生は部屋を飾り付け、
色紙、手作りケーキ、クッキー、スピーチや歌などのプレゼントをする。
 圧巻は卒業記念テープで、毎日の練習風景が20分ぐらいにまとめてある。
在校生が脚本を書いて模擬的に練習風景を演じる。3年生が入学してから演じてきた芝居を全部調べ、
挿入歌などを新たに練習し、さわりの台詞とともに録音する。さらに在校生からのコメントをつけて卒業生一人一人にラッピングの上、渡すのである。
 卒業生からは部門ごとに在校生にプレゼントがある。大道具さんには脚立とか鋸とか、
衣装さんにはアイロンとかアイロン台とか、その道で苦労してきた3年生が贈るものだけに、すぐ役に立つものばかりである。
 さらに卒業生から顧問にも心いっぱいのプレゼントがあり、
顧問から卒業生にもわずかながらの記念品をあげている。時間がかかって涙が出て大変だ。
 
(ソ)年間記念誌 部報スペシャル 制作の仕事
 二和の部報スペシャルには一年間の活動の記録が全て入っている。
1月のことから始まって一月ごとに思い出が語られ資料が挟まれる。
全部員からの一言や保護者からの一言、200名を越えるOBからの一言も載る。
開校以来の全上演記録も全部員名簿も載る。裏話がいっぱい出ていて読んでいると涙が出てくる。
OBと部員分で約200作り、その他100ほど作って、年に一回1月に発行し定期公演で売って資金を作った。
 これは生徒の制作が計画を立て、原稿や図案を募集し、印刷屋を探し、紙を買い、製本所の予約を取り、
発注し納入するまで全て顧問に関係なく進行した。
 そのほかにも制作の仕事は、各公演の会場予約、打ち合わせ、スケジュール調整・チラシ製作・パンフレット作成、
ポスター作成、チケット販売、広告取り、やる仕事はいっぱいある。船橋市の後援取り付け、
野外公演時の警察への許可申請、プロデューサーとも言われるのだから実は部で一番偉いのだ。
 
H馬橋のはじまり このHは2006/2/15に書いた文です。  
 大変なショックでした。25年居た船橋とわかれるなんて思ってもいませんでした。
3月に荷物を運んだ時、前顧問から4人の女子部員を紹介されました。元気の良い子が二人、大人しいのが二人。
その時の彼らが私に対して持った印象。「怖いって言う噂だったけれどやさしそうじゃん。」
「怖そうだったら全員退部しようと誓い合ったけどその必要ないね。」…。
 
 新入生歓迎会前日リハ。ところがキャストの一人はバイトで居ない。
作者の部長すら台詞を覚えて居ない。1メートルの距離でも何を言ってるのかわからない。
本番全校生徒誰も聞いて居ない。ラストV6を振り付けつきで歌いはじめると三年生半分ぐらいがステージに駆け寄って手拍子。
結句「気持ちよかったぁ」自己満足の極致。
 「全員やめさせてやるぅ」と思ったのですが、にこにことつきあいました。
 ほとんど口のきけない子。バイトを週に五日〜六日やっている子。むちゃくちゃ滑舌の悪い子。
V6大好きっ子。背が高く大人しい子。それが二年生。そしてただ一人の一年生。
 
 普段の部活、小さな物置のこたつに入って漫画とおしゃべり。「こんな所いやだぁ」「部室が欲しい。」空き教室をゲット。下駄箱が山ほど入っている倉庫。六人は結構喜んで下駄箱を廊下に出し、窓を拭き、あふれていたタバコの吸い殻を処理し、床を拭き、稽古場をつくりました。
 
 普段から走る事だけは時々やっているというので、一緒に走りました。
学校の回りを毎日三周。毎日、挨拶・拍手・体操・とやることを増やしました。
 「6月の脚本は?」「あ、もう、できてます。」読ませて貰ったら少女漫画にもなってない。
青ざめました。「少し書き直したら」と言ったら、なんだかだと素直に悩み始め、「どうしたらいいでしょう」ときたので、
まずラストの曲から。「何か意味があるの?何か意味がつけやすい歌を選んだら?」そこで出てきたのがV6の「ありがとうのうた」「じゃあ有り難うと言いたくなったことに、
一人一人気がつくという劇にしたら」
 
 六人は机を囲んでのおしゃべりがすごく得意で、毎日笑えました。
「部活が遅くなって帰ったら母親がマンションの下で鬼の形相で待ちかまえていた。」
「母親に腹を蹴られた。」「学校帰りに遅くなったら雷雨になり、その中を夢中で走って帰りついたら『なんでこんな時ぬれて帰ってくるの。
雷の中帰ってくるなぁ』と雨の中に玄関から閉め出された。」
 
 地区大会が始まったのにまだ台本ができないという設定で、最後はV6を歌い踊る。そんなエチュード芝居。
顧問に振り付けを根気強く教える彼ら。ともあれ、何かしら練習する部になってきました。不思議な芝居でした。
本当にしゃべれない子が2分遅れで回りに関係なく「あ、そうだね」なんていうし、
こまっちゃうと「どうしよう」と女の子全員がただ集まってしゃがみ込むもんだから、春の青年の家は笑いであふれました。
 
 秋、さんざん迷ったあげく、そこに出場辞退の話をからませた創作劇を作ることに。
自分達の内面をさらけ出しただけのエチュード、素人の下手さを前面に、ストーリーを運ぶ。
けれど素人っぽいおもしろさはもう失われていました。結果三位。
一番前に座っていた六人の部員は審査結果発表の直後から涙を流しはじめ、
やがて他校の部員のことも考えず大声で泣きはじめました。派遣審査員はこまり果て、おろおろと慰め的にだめ出しを続けていました。
「やった。人前で泣くようになった。良かったぁ」と思ったのもつかのま、
バイトづけの子と、口が聞けない子と、家庭の手伝いをしなければならない子3人が退部。
 残った子を大切に春を目指してぼちぼち「モンタージュ」。二人いれば稽古になる。
場面ごとに形作って、発表。11月中学生対象学校見学会で前半、12月クリスマスに後半、1月に全体を発表。4月、松戸市民劇場を借り切り第一回定期公演。
照明は船橋旭高の卒業生、受付は薬園台高校の生徒さん。部室で新入生歓迎公演をやって3年二人は引退。残ったのは2年1人と1年2人。
 
 さあ今年はなんとかなると本気になったのが間違い。6月に入って二年生、「もうやってらんない」
「私は先生の人形じゃありません」と怒りまくって部を飛び出してしまいました。残ったのは1年生2人。
手伝いが来てなんとか6月公演終了。
 
 もう誰もやめさせられない。おずおずと部活。いろいろな一年生を部室に引き込んでは秋の作品探し。
東金青年の家の講習会参加。二人のやる気OK。夏休み後半、結局二人で「モンタージュ」。ところが1年にとっては難物。
体調がかわりばんこに狂って、練習はほとんど一対一。一人500もある台詞が覚えられず、あせりはつのるばかり。
ついに文化祭十日前、一人が胃腸炎で学校早退。文化祭一週間前、結局二人とも学校に現れず、
来そうなお客に断りの電話を入れて、公演中止。
早退した女の子「白血球が一万八千を超え白血病と診断され、抗ガン剤を使用してます。」との報告。文化祭無理。
残った一人も体調悪く、練習でてこられない。「何もやらないで終わるのやだよね。」と手伝いの三年生と会話。
「三年生がしゃべって録音、それに併せて舞台で一年生が一人芝居をしよう。手伝ってくれる?」「はい。」翌日録音。
それが結構楽しくて、笑いの連続。翌日また1年休み。「本番考えるとかわいそうだよね。」「ええ。」
「一場面だけ出てあげてくれるかな?」「いいですよ。」それが文化祭の二日前。
 
 文化祭前日、二人で練習し、10分間ちょっとを一日目に上演。お客も半分帰った時、
カレー屋をやっていた三年生女子たちが体育館に乱入。「あれ?終わったの?みたいよ」と騒ぎ出す。
「お二人さん、もう一回、やれる?」といったら四月から引退、顔も出していなかった元部長が客席から「私もやってもいいです。」と立ち上がる。
その場で小道具も打ち合わせもなく台詞も半分忘れたまま、三人で一場面上演。笑いが絶えない。
「感動した」とカレー屋さん達。体育館を出て行く。「明日もやる?」「いいすよ。」文化祭二日目トータル40分ぐらいを上演。
 地区大会は4日後。「出られる?」「いいすよ。」受験間近の三年生二人が戻って四日目、
場面を途中で打ち切って、無理矢理結末つけて上演。なんと地区大会を抜けて、県大会で一位。
なんと関東大会へ。マスコミの見出しは「廃部の危機からの脱出」。そして今日になりました。
 
I創作の道筋『じゃがいもかあさん』
絵本の発見
 一次の湾岸戦争のさなか、テレビではバクダット上空のミサイルを流していた。
小学校1年の長男が「これ面白いよ」と絵本を出した。「よし、読んでやるぞ」とよみきかせたら目の前の映像に、この絵本がだぶった。
この本を持ってきた我が子の成長に、涙があふれて止まらなかった。これが『じゃがいもかあさん』だ。
 あらすじをみんなに聞かせる。部員も母さんが生き返るところで吹き出す。
使えるかもしれない。四国大会(楢山節考)の帰りの新幹線の中で、創作が決まった。
上演権は2年生の女の子が取得
 偕成社に女の子が行って、上演許可をとり資料を貰ってきた。
8月下旬から、班ごとに創作した。10分間ぐらいのエチュードが何本か出来た。
「サンロレンツォの夜」などの戦争がからまった映画も見た。でも決まらない。
 勉強会で、この絵本の作家、アニータ・ローベルはユダヤ人で強制収容所ラーベンスブルックの生き残りだとわかった。
よしこれだ。路線は、アンネの日記を外枠に使うことになった。
当然「私のアンネフランク」「ミープ・ヒースの日記」等を読破し「ホロコースト」(8時間のビデオ)等を見ながら創作を続けることになる。
全体構造は「ラ・マンチャの男」を使うことにした。
 曲は私の高校の1年下が持ってきてくれた。編曲は8年下の後輩が手伝ってくれた。
振り付けは部員の知り合いが手伝ってくれた。二和の0Bも舞台美術に関しては方々で活躍している。
頼れる力を全部集めて劇を作っていった。
 
脚本は毎日変わった。
 文化祭では衣装はただのTシャツだった。10月の二和公民館柿落とし公演でやっと赤い軍服が何着かそろった。
地区大会通過。セットはお話のシーンになると、壁が開く事にした。県大会へ行ったが、未整理だとして評価されなかった。
 「全国の後だから今年は関東に行かないよ」と言っていたみんなだが、ようやくできあがってきた芝居が打ち壊された悔しさは相当なものだった。
主要メンバーはここで卒業した。だが、「かあさん」に再びチャレンジする事になった。
 
2年目になった。
 キャストはしょっちゅう変わった。1年がやったり2年がやったり、裏方がやったり、クリスマスで、
冬の定演で、新入生歓迎会で、6月の1年生公演で、グローブ座で様々な形で様々なストーリーを発表し続けた。
 とにかく芝居を作るために演出家から俳優から色々な人に会ってアドバイスを貰った。
パナソニック・グローブ座で舞台美術家に相談、動く階段構造から、動かない地下2階に方針変更。
 
 衣装・紺色はダメ・どらえもんの水色もダメ・作っては壊し作ってはやり直す。
塀が板から布に、そしてパッチワークにと変わった。つくった衣装は500着を越える。
いっぱいの事件がおきた。けが人、ケンカ、停学、赤点、進路の迷い、過換気症候群、親子喧嘩、離婚、発狂様々なことがいつもいつも起こり続けた。
3年かかって終わった。
 2年目の地区大会を通った。県大会またも2位だったがこの年から関東が2つに分かれようやく関東に行けた。
関東1位。再び主要メンバー全て卒業。全く新たにキャストをくんで、4月も6月も公演し、
キャスト・スタッフ総力あげて3年目の夏、浦和で全国大会に出場し、国立劇場で最終公演を終えた。 
 
Jエチュードからの創作・馬橋「上昇気流」
 馬橋7年目、本格的にフリーエチュードからの創作にチャレンジした。
部員を2人から5人ぐらいの4つの班にわけ、アップや歌練が終わった後、
各班でとにかくエチュードを作る。そして、最後にそれを発表し合う。だらだらしたエチュードもでるが、
これはというものも中にはある。これは面白かった、これはこうしたらなどと合評会。次の日も同じ班でねりげたり、作りなおしたり。
 こうやって一週間ぐらいするとかなりおもしろものが整ってきた。
母の自慢のカレーライスをかこんでの心温まるファミリーもの。優柔不断な男がオレオレ詐欺にチャレンジ、
けれど電話に出たおばあちゃんとどんどん仲良くなってついに自立する話。
プレイステーションに興じる高校中退のお兄ちゃんをめちゃくちゃ甘やかす壊れた母と、
その兄のことで学校でいじめられている妹が必死に勉強続ける出口のない話。
 
 そして極めつけが、飲んだくれの親父が、娘と息子に飯を食わせながら、子ども達に絡んでいく話。
はじめてこの親娘の会話のエチュードが出された時、台詞が次から次へと出て口喧嘩が終わらない。
10分以上も、「お前男と歩いてたろ、誰だあれ?」「関係ない。」「バイトしてんだろ。」「父さん仕事は。」
「うっせえな。」「そんなんだから母さん出ていったんじゃない。」などの会話がえんえんと発展しながら続いていく。
 「これはよい。もっと工夫しろ」と指示したら次の日、お母さんがプリンを作って一家がしあわせな過去のシーンが加わった。
「いい。工夫しろ。」と言ったら、もとの殺伐とあれた親子の元に、母さんから宅急便が届くシーンが加わった。
団欒の場面が加わった。中に入っていたのは手作りのプリン。おいしいおいしいと泣きながら食べる親父。
四つのエチュードを組み合わせて、つなぎの語りを入れて四月発表した。
    社会科教室に100人以上のお客さんが来てくれ大好評。
秋、4つを組み合わせて「上昇気流」とした。
喧嘩したり、わかれたり、ひきとめたり、泣いたり、関東大会一週間前に主役がおりて代役を立てたり波乱ばかりであったが、
    一つの成果だった。
 時々、班に分かれて、フリーエチュードをつくり、発表し合う。その時みんなは自分の普段経験していることを盛り込んでくる。
体の事。離婚。親子喧嘩。
そして、そこに自分を見つめる目を置いてくる。だから少しフィクションが入る。
     フィクションと現実が混ざって、涙が止まらなくなる。
 
K秋作品の年譜 白里高校 1973年 孤児エンミ              ◎国立劇場
1974年 夕鶴      地区大会
1975年 象の死     地区→県大会
1976年 英雄たち    地区→県大会・出場辞退
1977年 英雄たち    地区→県→関東(横浜)→全国大会(神戸)
1978年 かげの砦    地区大会(直前に部分裂・15分だけ上演)      
 
船橋二和高 1979年 象の死 地区→県→関東大会(千葉) 開校年度・一年生だけ
1980年 翼は心につけて 地区→県大会
1981年 英雄たち    地区→県→関東(高崎)→全国大会(宇都宮)
1982年 大きな木    地区→県大会
1983年 かげの砦    地区→県→関東大会(東京)
1984年 うたよみざる  地区大会
1985年 りはーさるさる 地区→県→関東(横浜)→全国大会(茨木)★
1986年 なんの木この木 地区大会
1987年 ある夢     地区→県→関東(長野)→全国大会(熊本)
1988年 うたよみざる  地区→県→関東大会(船橋)
1989年 英雄たち    地区大会
1990年 楢山節考    地区→県→関東(長岡)→全国大会(丸亀)★◎
1991年 じゃがいもかあさん 地区→県大会
1992年 アニータ・ローベルじゃがいもかあさん 地区→県→関東(東京)→全国大会(浦和)★◎
1993年 100万回生きたねこ 地区→県→関東(甲府)→全国大会(松山) 
 
船橋旭高 1994年 モンタージュ〜はじまりの記憶 地区→県→関東大会(横浜)
1995年 ラヴィータ   地区→県大会
1996年 花いちもんめ  地区→県→関東(八千代)→全国大会(橿原)◎
1997年 ヘレン・ケラー〜水をください 地区→県大会
1998年 私のヘレン   地区→県→関東大会(東京)→全国大会(山形)
1999年 山姥      地区→県→関東大会(甲府)→全国大会(三島)◎
2000年 花火      地区→県大会
2001年 響き      地区大会→県大会→関東大会(三島)
2002年 あの人にわたせ 地区→県→関東大会(八千代)
2003年 ピアノトマト  地区→県大会
 
松戸馬橋高 2004年 テーベの腕飾り 地区大会
2005年 モンタージュ〜はじまりの記憶 地区→県→関東大会(甲府)
2006年 桜井家の掟   地区→県→関東大会(横浜)
2007年 花火の夜に   地区大会
2008年 赤鬼      地区→県→関東(市川)→全国大会(四日市)◎
2009年 神隠し八十八ものがたり 地区→県→関東(ひたちなか)→春の全国大会(倉敷)
2010年 山姥      地区→県→関東大会(八王子)
2011年 上昇気流    地区→県→関東大会(甲府)
2012年 100万回生きたねこ 地区→県→関東大会(横浜)
2013年 ラエルとパラナ 地区大会
2014年 楢山節考    地区→県→関東大会(八千代)

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