地震のあと

4月4日(月) 4名が昨日、鞄の中に夏みかんを一杯詰めて、さらに缶詰などももって、北小金の東漸寺に行った。
         その報告。
         福島から避難の方々が25名ほど来ていらっしゃるというので、口に合うか分からないがと持って行ってもらったら
         「物資は足りている」との事で、考えたあげく、小金原の避難所に電話をしたところ「来て下さい」。夏みかんをお渡ししたところ
         喜んでいただけ、二、三の方とお話もできたとの事。


3月22日(火) 久しぶりの学校。本日は旭町小学校と馬橋高の2年生とが一緒に花を植えて回るボランティアの日だったが雨にて中止。
         部活も震災以来、いや3月に入って初めてだ。どうやら大きな被災者は居ないようだ。
         終了後の反省会はなにやら一人一人ののんびりトークとなるのが近年の特徴だが、今日はそれぞれの11日(金)午後2時45分
         に終始した。14号の埋め立て地では大きく揺れ食器が割れ地面が液状化していたとか。食器棚をお父さんが抑えていたとか。
          家出一人で居てこたつの下に隠れたとか


3月21日(月) 久しぶりに観劇に東京に出た。電車は動いていたのはいいとして、夜、街にあかりがともらない。
          薄暗く所々に蛍光灯がてらす黒い渋谷を見たのは初めてだ。


3月20日(日) NHKのニュース、被災地からの報告、芋煮を食べる姿を見ているだけで涙が出てしまう。
         
          13日に予定されていた町会の班長会議が今日開かれた。会館もドアが閉まらなくなったり、トロフィーが倒れたり
          碁盤が倒れ棚の戸を開けると碁石がなだれ出たとか。
          ガソリンスタンドは休み、またはほぼ1キロの給油待ちの列。
          高根木戸のイオンもインスタントラーメン・ティッシュ・などの棚は空っぽだった。
            今日も中学生二人からメール。26日の練習には最低五人の中学生が参加する予定。


3月19日(土) 馬込霊園に自転車で行く。この自転車に乗るのも久しぶりだ。前輪も後輪もぺっちゃんこ。スポークはさびさび。
          
          平成13年に父が、20年に母がここで眠るようになった。
          芝生墓地でうちのブロックの回りはみな13年に建てられた横幅のあるお墓。
          花をいけようとしたらなんと水道の水が出ない。あっちもと歩いて行ったら同じように筒を持って困っている人がいて
          「地震のせいですかね。低いところでは水が出るといってましたけれど。」と二人で困っていたら、
          「これどうぞ」と花桶の水を分けてくれる人がいた。
            花を添えて墓を洗って線香をくべて一人でほってある命日を手でなぞっていると涙っぽくなる。
          父が亡くなった時には母は元気だった。笑い声が聞こえていたのはいつぐらいまでだったかと。
          立ち上がって谷の向こう側を見ると二和高校が見える。あの四階の生物室から、「斜面切り開いてるよ」と
          みんなで話していたのはもう20年以上前になるのかしら。
           斜面をおり、畑の間を抜けて民家の横をのぼり始めたら赤いコーンとロープに囲まれたブロック。
          あの地震でブロック塀がずらっと落ちたんだ。
           「てっぱん」復活しますと、NHKで録画されていた。13日の土曜からずっと報道特番だったから、
          BSNHKハイビジョンで見ていたのだけれど、やっと番組も戻ってくるんだなと少しほっとした。
          「てっぱん」で週に二回ぐらい泣きそうになっちゃうのはわたしダメなんだろうか。
            今日も中学生からメール。私のメールには−−みねと−−と署名が入るので、その返事に
          みねと先輩ですか!これからよろしくお願いしますっ!とあった。いつ真実を知るのかしらん。



3月18日(金) 朝から新京成ストップ、帰り時間帯も止まるとの事。車にはガソリンがあまり入っていないがやむを得ず車で馬橋に。
         ちらしを印刷し、新入生向け案内を作り、午後、入学説明会。受付担当。はっと目を上げるとにこにこと荻が「今日は保護者です」
         と目の前に。妹と並んで。全体会終了後その他の連絡となったら「野球部から」「バスケットボール部から」と次から次へと10ほどの
         部活連絡が続く。こんな教員が夢中になって部を作ろうとしている姿は他の学校にはないだろうなと思いつつもちろん「演劇部に
         入りたい人はこっちに集まって」といったらバババと16人の男女が来てくれた。部報を渡し、練習計画や連絡先を伝え、はっきり決まっている人は
         名前と住所書いてといったら7人がすぐ持ってきてくれて、夜にはメールも2通。


3月17日(木) 学年末考査3日遅れて実施。一日に三科目。明日は入学者説明会は実施するが生徒は休校と決定。
          答案返却は行わず、試験のみで成績が確定する。野田線と成田線を使用している生徒は登校できなかったので公欠。
          一学期と二学期の成績と三学期の平常点で全てが決定される。二次募集の成績会議が開かれて生徒は1時完全下校。
          明日の準備をしている間に、新京成本日二度目の運休とHPにアップ。帰れなーい!!!


3月16日(水) 臨時休校・二次募集は実施 14名受験 新京成は午後運休


3月15日(火) 馬橋駅まではJR常磐線各駅で行くのですが、快速電車も各駅電車も松戸までしか運転されず休校
    車で早めに出たこともあり今日はなんとか8時半に学校に到着。
    二次募集の要項について検討。その後準備室や実験室の整理をしました。

     準備室     準備室横の体育館への階段 職員玄関前。割れてます。
   計画停電・JR運行を見て16日は休校 学年末考査は17日に三科目と決まりました。
    福島原子力発電所のニュースに凍りました。


3月14日(月) 計画停電にならずテレビが動いて確認したことはJRの運休、私鉄の運休。
    午前7時6分に休校のメールが入り何人かに転送しました。
    サンショウウオや夏みかんやレポートを持って行こうと車で鎌ヶ谷高校脇を過ぎ鎌ヶ谷市中沢あたりまで行ったのですがものすごい渋滞
    引き返しいつもは10分の道を1時間以上かかって帰って来ました。

    メールで15日も休校、学年末考査は16日以後、一日三科目で実施との連絡 部員に転送しました
    コンビニ・D2・スーパーから電池・ランプが消えていました


3月13日(日) 予定されていた町会の会議も延長になりました。
    スーパーに買い物に行くと混んでいました。パンなども残り少なかったし、内設しているパン屋さんは焼いていませんでした。
          その後人と会う約束が船橋であり、その後、サンショウウオをとりに大網へ向かいました。
    たんぼに水が入ったばかりの風情でしたが必要な分採取できました。その後茂原に向かい夏みかんを収穫しました。
    一時間ほどしか時間がとれなかったので100個ぐらいでしょうか。今年は大量に落ちていました。実も小さくさわるとぼとぼと落ちます。
    ちょっと不安。京葉道路緊急工事が入り渋滞でした。コンビニにパン弁当など皆無。


3月12日(土) テレビの画面に釘付けになりました。
   レポートの採点などを済ませていると夜になって長男が帰宅。 
   中野のマンションの食器が床に落ちてかなり割れていたそうです。
    午後14日のテストは予定通りだが飲み水は各自用意するよう連絡してくれとのメールが入り部員にメールしました。


3月11日(金) 学年末テスト2日目 2科目が終わり、校内には勉強会を開いているメンバーが100人近く残っていました。
  14時45分の地震で生物準備室入り口のロッカーが倒れました。教室の中央付近にあった本棚の本が飛び出しました。
  水槽の水が揺れてあふれ出ました。採点中でしたので解答用紙が濡れないよう片付けました・
    揺れが収まってから実験室に入るとみんな机の下に隠れていました。ウニの水槽の水が三分の二ほど飛び出ていました。
  廊下の水槽、窓際の水槽も五分の一ぐらい水が飛び出し、床が水浸しになりました。

   床の水を処理している間に、放送が入り、生徒は荷物を持って生徒昇降口前に集合。点呼を受けました。
  体育館と管理棟の境の階段脇が揺れて金具が一部落ちています。図書室の本も床に飛び出ました。
  職員玄関や生徒昇降口の校舎とアスファルトの間に隙間ができ、アスファルト側がやや陥没しているようです。
   屋上に水をあげるポンプなりタンクにひびが入ったそうで、今後、トイレは使えそうだが、水はのめなくなるのかなと話していました。

  余震が減ってきた段階で徒歩で帰れる生徒、名前をチェックした上で帰宅しました。そのメンバーの下校が過ぎた後チャリで帰る生徒も帰しました。
   武蔵野線・常磐線も止まっているということで、暫くした後電車組は3年1組に1年生、3年2組に2年生が入って待機ということになりました。
  トイレに行ったりストーブで暖をとったり、図書室から漫画を借りて読んだりしていましたが、電車が動きそうもないので、
  迎えに来てもらえる生徒は来てもらって何人か同乗してかえり、5時過ぎからは職員が手分けして残っている生徒の自宅まで送りました。
  総勢25人ぐらいの生徒でした。

   土田も船橋市咲が丘と前原まで車を動かしました。偶然車で来ていたので助かりました。
   滝不動まで裏道が空いていて順調でしたが前原まで、さらにその帰りが渋滞で遅く帰りました。

   家は花瓶が割れたり、食器が一枚割れたり、スピーカーや額が落ちたりですが大きな被害はありませんでした。
   長男は小田原の会社の寮でそのまま、長女は東京駅の勤務先から西落合まで一部電車と徒歩で落合の自宅に戻りました。
   奥さんは蘇我の大学からすぐ茂原の母の家に戻り無事でした。
    コンビニにパンを買いに行ったらもうありませんでした。


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