「花火なんか」感想集  スペースゼロ 2001−8−11



会場で直接お話をいただいた事をまとめてみました。


・題名が悪い
・いろいろな小技を使っていて、その量が多すぎる。統一もとれていない。
   例えばスローモーションならば 、同じ、やり方で最後までやっている。台詞のないダンスでも一時間充分に楽しめる理由を考えなさい。
・しめの部分のドラマ性が弱い。ぐっとひきしめる、新鮮な、考えや場面をつくるべきだ。
・スペースゼロに最初に提出した脚本が一番面白かった。ゆうが知恵遅れを装っている設定など、大変面白い。
 高校生にはあの第一稿はできないのかと、残念だ。
・家族を描くにはあの母の死は欠かせないと思う。その時の、姉の動き、弟の動き、妹の動き、父の動きが、一番大切なのではないか。
・なんでみんなとおんなじ事やるんだろ、なんでこんなことしているんだろ、みんなとおなじことしてよ、
 などの 強い言葉が オープニングにありながら消えてしまう。
・いじめ、障害、母の死、の三つのメインテーマが多すぎ。みんな中途半端。
・サブテーマ、車いすの子、族をおいはらうつっぱり、苦しみながらいじめている加害者、なども観客を多方面に引っ張っていて
 話を薄くしている。
・族、それとの戦い、あたりが安っぽい。
・終わりがはっきりしない。
・音響。照明などでの花火の効果など多すぎ、大事な場面での花火が生きていない。
・夫婦が夫婦に見えない。
・妹がどういうレベルの子なのかわからない。
・家族が家族という気がしない。
・障害をもった子供達の一人一人の状態がわからない。
・そもそも障害者のシーンが必要なのか。必要ないと思う。
・弟の演技レベルにみんなが追いついていない。
・滑舌の悪い役者がいる。
オープニングの先生や中学生など声量が小さく、良く聞こえない。
・大道具重すぎ、しかも積みにくい。もっとうまく切れば小さくなる。



掲示板やメールやお手紙 でいただいたお言葉

・盛りだくさんの内容でしたね。本当にこれからの舞台がどのように熟成し、発展してゆくのか楽しみです
・泣けそうで泣けなっかたのが、正直な感想ですが
・面白い舞台でしたねぇ〜色々な面で
・まだ始まったばっかりだし、 これからどんどんガンガン変わっていくでしょう

・ピンスポがもう少し明るくてもいいのでは……。
・ホリゾントにでるビジュアルに一考あり。
・オフマイクの声がステージの音声と調和していない。
 (→たぶんスピーカーの位置と音量の問題?)
・太鼓の部分もっと見せてもいいのでは……。 きちんと序破急のある演奏が聴きたい。
 太鼓は本質的に祝祭性があるものだから芝居の流れを中断しても邪魔にはならないと思う。
 そのほうが太鼓を使った演出効果的な位置づけがクリアーになるような気がする。
・舞台セットにいらないものがあるのではないか(たとえば、上下にある木?)。
・ああいう構成舞台なのだから、もう少しアブストラクトにできるのでは……。
 そのほうが観客の想像力を喚起する……。
・イジメの場面のムーブメントに問題があるような気がする。面白いけどね。
 スローモーションはゆっくり動くのではなく、時間がゆっくりになることだし、
 ストップモーションは動きを止めるのではなく、時間を止めることだから……。
 あと、そのとき動きと声(科白)は別のところ(次元)からでてこないと……。
 まるで違う動き(演出)も考えられるのではないかなあ。
 あれは主人公の女の子から見た動きでしょ。何か別な視点からの動き……。
・戯曲に関しては言うことはない。
 土田が見ている社会なんだろうと思うし、土田の問題意識が充分に見て取れるよ。
 「少女の内面を描くこと」と言ってたけど、それには戯曲だけではなく俳優の問題もある。
 これはやはり社会劇なんだろうな。

ラストの川に太鼓のシーンドライあてのライトブルーなんかあるといいなと思いました。低めであてると幻想てきかな?

お父さんが花火花火と一生懸命生きるのだけれど、その事が今ひとつ信じられない。
父親が花火花火といっている割にはリアリティがないのは職人としての仕事をしていないからではないか。
ドラマの筋となんの関係もない地味な黙々とした具体的な仕事としての過程、それ自体としてはなんのおもしろみもないだろう
そういう裏の仕事、それは一般の人はみんな知らないわけで、そうか、そういう風な作業があって花火は出来ていくんだという
「情報」を知らせることにもなるそんな場面があったらいかがでしょう。場面を一つ削っても。
もうちょっと花火のことを勉強して、その中にきっとあるだろうちょっとした苦心、あるいは単純な労働の積み重ね、
そんな観客にとっては新鮮な事実を見せること。その事で父を描くことになる。その苦心は登場人物の子供達は知らなくてもいいと思うが。

日常の個人の部分が丁寧に描かれてないと、拡散してしまって、ストンと胸に落ちてくるものがないまま終ってしまうような気が
してなりません。

場面を一つにしてみたらどうでしょうか。エピソードをかなり刈り込んで、登場人物を減らす。
そして、ヒロインに刺す直前で思いとどまらせる。それが芝居の力のような気がするのです。
こういう時代だからこそ、そういう芝居が観たいと思います。傷つく人が多すぎるように思えてなりません。
母親には入院先のベッドで花火を見て欲しい。その後は観客に委ねてもいい。
『花火なんか』には、根底から魂を揺さぶる要素があるように思います。
創造する人間は産婆だと思います。あの脚本の中で先生を呼んでいる声を聞き、誕生させて上げて下さい。

・終演時の拍手からわかるように多くの観客に感動を与えたと思うが、何に感動したのか
よく考えると不明である。多くは弟のゆうの演技と雰囲気に魅了されて泣いた人が多いの
では。障害児の設定は、演技次第だが、必ず観客を呼べるという意味では「禁じ手」かも。
テーマを殺してしまう恐れもあるので議論の余地がありますね。
・そのテーマだが、基本は「いじめ」だが「家族」に呑み込まれてしまって希薄になっている。
また、いじめを様式化で処理しているため迫力に乏しい。暴行シーンより強烈なインパクトを
与えるようにいじめを描く必要があるのでは。
・テーマを希薄にさせている理由の一つに唐突な展開に目を奪われてしまうことがある。
母親の死、ゆりの殺傷事件などは違う扱いでもいいのでは。両方ともに解決も救いもない
まま終わっているので、観客への目くらまし以上の効果があがっていない。
・突き詰めていくと、60分の劇の中で少女がいじめから立ち直れるのか、という苦悩がそのまま劇に現れており、いじめを書
くはずが「家族」や「障害」そして「暴行」、「太鼓」といったものに逃げてしまっている気がする。
・一見「家族」に救いがあるかの様に描かれているが、母親は亡くなり、父親は花火から
離れられず、ゆりの犯罪は重く、この家族は客観的には破綻を目前にしている。それを弟の
やさしさだけで無理やり「救い」にもっていこうとして終わっている。ここはむしろ解決のない
まま、思い現実だけを観客にぶつけて終わるのも一つのやり方かもしれない。 
高校演劇としてみたらよいのかもしれない。元気で客を良くつかまえている。
ただ演劇としてみたら山田洋次の手のようですきでない。
高校生の初々しさでうさんくささをまぬがれているといったところか。
上達すると言うことは慣れると言うことと紙一重の危険なことであるのを忘れないように。

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