テアトロ平成12年4月号に載せた原稿です。



高校演劇って       土田峰人

 1月29日甲府の関東大会で「山姥」を上演し学校に戻った。大道具を3階と4階に片づけて出来る限りの大掃除。その後、部室でジュースとお菓子で打ち上げ。
 一年生のキーボード弾きの女の子。立ち上がったとたん泣き始めた。秋からいきなりキーボードになった。山姥役の三年生が春まで前作のキーボード弾きだった。今回も作曲を担当した。だから手厳しい。「寒いのに本番前なのに手袋をしないんだあいつ。手がかじかむって言ってるのに。まじ、きれるよ、あたし。」こんな言葉が日常だった。歌の練習は主に山姥が弾いた。バイエルも終わってない?1年は怒られながらこの半年間キーボードと戦ってきた。みんなが稽古を深めているときはヘッドホンを耳にあて思うように動かない指を走らせ続けた。カシャカシャ、キーの音だけが稽古場に流れた。関東本番直前、山姥から手紙をもらった。「おまえなら出来る。」キーボード弾きは話をしながら泣いて泣いて、周りは笑って笑って泣いて。ジュースとお菓子の打ち上げは26人のドラマを抱えて進む。
 蛙の女の子。「私は本番中、山神の右足になる時、出遅れた。あわてて左足に潜り込んだ。すると左足のヤモリが言った。『先輩違います出ていってください。』満場の観客やカメラが六尺高で立ち往生している私を見ている。落ち込んだ。でも今度は、火のふらしだ。取り返すぞ、と袖に走った。ところが火のふらしはリハの時に雨に回されていた。それを気が動転している私は忘れていた。ふらしの紐がない!我を失った。ああ!だから本番前に点検すれば良かったんだ。何故しなかった!一生懸命ふらしを作っていた人達の顔が浮かぶ。三年は今日で引退、最後の舞台なのに、なんという事をしてしまったんだ。私の狼狽に関係なく劇はどんどん進み雨が降り出した。いいな、雨は、二つも籠使ってふらして……増やしたからふたつに……?……!。うわあ。私は馬鹿ダア」
 泣きながら笑い転げながら、心をいやす打ち上げがいつまでも続く。
 
 高校演劇を作りながらなんど涙にあふれた豊かな時間を過ごしたことだろう。
 稽古場でも、何度泣いたことか。「じゃがいもかあさん」の稽古場。息子達に打ちのめされた母親役がいつまでたっても起きあがってこない。みんながその三年生の起きあがるのを待っていた。やっとおきあがってくる。「なんだい、おまえたちは。いつまでたってもかわらないねえ」その言葉を聞いてみんなの目に涙があふれた。ドン・キホーテに赤いリボンを巻いた清純な1年生。男に迫られ『ずくなし!』と気を失った女の子。最後の通し稽古中に涙が止まらず叫びだしたむくつけき村の男ども。
 事件にも事欠かない。『この中で、悪いことをしたことがある奴が居る。何人いるかしらない。ただ思い当たる奴は校庭で待っているから来い。』寒空に月が輝く校庭で小一時間も座っていると一人きた。振りかえる事が出来なかった。「タバコをすいました。」また一人きた。「やっぱり帰っちゃいけないと思って。」三人で見果てぬ夢を歌った。ところが翌日実際に停学になった者は三人だった。一人こなかったのがいたわけだ。
 目の前で発狂し赤ん坊に戻った者が居た。一時間に一才ずつ年を取っていった。みんなが彼が成長するの見ていた。家が火事になったものがいた。一緒に焼け跡で水に濡れたアルバムをさがした。
 「なんだ、てめえ表へ出ろ。」「おい」「大丈夫すよ、話するだけですから。」あらくれ男達。地区大会中に太股をかみそりで切った女の子。「だってみんなが本気になれると思った。」母親の家出。妊娠。喧嘩。「俺たちは手を出さない。俺たちを殴るなら腹を殴れ。」と殴られていた大会前の男達。
 
 そんな高校生達と一緒にいた。何時までも衣装を作り直している女の子と一緒にいた。一緒に縫ってくれる親たちと一緒にいた。朝早く来て小道具つくっている。出来ないホルンやトランペットを一人野外で鳴らすものと一緒にいた。マラソン大会で上位に入るものたちと一緒にいた。
 そんな彼らが劇をつくる。生活のまん中で劇を作る。それを見に来てくれる客が居る。客と自分たちのために必死に劇をつくる。それが私をここまで引っ張ってきた。
 
 高校生らしい劇を?審査になると突然この言葉がでてくる。高校生が出てこないと高校演劇と認めないという人すら居る。なぜそんな必要がある。彼らは社会の真ん中で生きている。受験や校内の恋愛の中だけではない。もっと広い世界で生きている。
 楢山節考をやった。死を見つめてどう生きるか。これは高校生らしくないのだろうか。今、山姥をやっている。子供を育てられない現代の少女たちと、どんなに子供から裏切られようと、深い気持ちで子供につながっている恐ろしい山姥、つまり母。これ、高校生らしくないのだろうか。
 サリバンと母がヘレン・ケラーを奪い合った。裁判まで起こして母はサリバンを遠ざけようとした。サリバンは財界人によびかけ身を守った。ヘレンは一体誰のものだろう。ヘレンはきっといつかつかんだはず。自分は自分のヘレン、つまり私は私のヘレンなのだと。これ、高校生らしくないのだろうか。
 この作品が成功しなかったのは、思いっきった構成が出来なかったからだ。代が変わった役者達が前の役者達を越えられなかったからだ。ヘレンの駆け落ちを18才の時と設定すればすごい集中が起きたのではないか。
 全ては台本なのだ。劇が成功しないのは台本をきちっと書ける人が居ないだけだ。台本は役者を生かし、はずませる。高校生をあつかった劇が高校演劇ではない。高校生がやる劇が高校演劇なのだ。面白くないのはジャンルを間違えたからでなく、台本の悪さと役を自分のものにさせ得なかった演出のせいなのだ。ならば講評とは何か。
 船橋には固定客が居てくれる。小さい子からご老体までみんな楽しみに見に来てくれる。そんな中で、『今年のは面白い』、『今度のはねえ……』、『こりゃひどい』と言われるのは仕方がない、それでいい。どっさりのアンケートや手紙を受け取る。これが講評だ。
 高校生らしくないという評価はあまりにも意味がない。役者が生き生きとは見えなかっただけではないか。だから審査員は手厳しいアドバイザーであって欲しい。どうやったら、何を直したら役者が生き生きするのか、何が妨げているのかを教えて欲しい。
 
 劇場にはその劇場の客が居る。三越劇場や新橋演舞場、紀伊国屋、パルコ、本多劇場、スズナリ、タイニイアリス、全て客が違う。そして、間違えた劇場に行ったときにたまらない違和感にあう。民芸の芝居を見て第二幕の前に逃げ出した人がいる。商業演劇に腹を立てる人がいる。小劇場で訳が分からないと席を蹴り飛ばす人がいる。客層によって演じられる芝居は変わるべきだ。
 高校生らしい劇?そんなジャンルはない。役者が十五歳から十八歳という事だけだ。客が同世代の仲間と親や親戚、一般市民、小中学生というだけだ。
 若い体と感性を引き出せることさえ出来れば良い。その空間と言葉をつくる火の中に高校生とともにいる。三年間を見守る。毎日変わっていく姿を見守る。それだけでいいじゃないですか、高校演劇って。
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